ウォーレン・バフェット物語とその人生(1)
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米経済誌『フォーブス』が毎年公表している米国長者番付で、ウォーレン・バフェットはつねにトップ5に入っている。本稿でも登場するビル・ゲイツもその一人だ。
実は、この両雄は長年の友人で、2006年にバフェットがゲイツの運営する世界最大の慈善基金団体「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」にみずからの資産の約8割を寄付することを表明し世間の耳目を引いた。さらに2010年には自分が生きているあいだ、または死亡時に資産の99パーセント以上を慈善活動に寄付することを誓約し、ゲイツとともに他のスーパーリッチ(超富裕層)にも積極的に寄付するよう呼びかけている。
しかし、二人の富豪には決定的な違いがある。65歳になったゲイツはすでに経営の一線から退いたが、90歳のバフェットは今でもCEOとして経営の指揮を執る。
90を超えて今なお経営の第一線で奮闘するバフェットを動かすものは何か。本人や関係者のインタビューをもとに全4回のシリーズでウォーレン・バフェットのこれまでの人生を振り返り彼の素顔に迫る。
本シリーズはブルームバーグ(米国金融情報サービス会社)で放送されたインタビュー映像Warren Buffett Revealed: Bloomberg Game Changersの音声を翻訳し、加筆、編集して作成した。(翻訳・執筆:島田亮司)(敬称略)
■登場人物 ウォーレン・バフェット、スージー・バフェット(バフェットの長女)、ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)、アリス・シュローダー(バフェット公認の自伝『The Snowball』の著者)、ロジャー・ローウェンスタイン(ジャーナリストでベストセラー『Buffett: The Making of an American Capitalist』の著者)、チャールズ・ピーターソン(大学のルームメイト) |
大金持ちになるという確信
1929年、ニューヨーク証券取引所での株の大暴落をきっかけに、世界大恐慌が始まった。その翌年の8月、ウォーレン・バフェットは米国ネブラスカ州東部にある同州最大の都市オマハで産声を上げる。
そんな通史に残る国内外の経済不況の真っただ中で幼少期を過ごしたバフェットは、今や「オマハの神使」また「ネブラスカの賢人」と崇められるようになった。しかし彼は小さいときすでに、将来そうなることに薄々気づいていたのかもしれない。
「私は10歳のとき、自分が長生きすることができれば、大金持ちになると確信していました」
その予想は見事に的中し、70年後、彼は世界で有数のリッチで偉大な男となっていた。それも、ロックスターのようなオーラをまとった巨商となったのである。
はたして、バフェットに巨万の富をもたらしたものとは、何だったのだろうか。バフェットの長女スージーによると、それは信念以外にないという。バフェットはだれよりも確固とした信念と明確な目的を持っていた。常にベストを尽くす人でありたいと強く願い、努力を惜しまなかったのである。そのベストを尽くしたものが、たまたまお金を稼ぐことであったにすぎない。
「ウォーレンはとても若々しくエネルギッシュで、今起こっていることに、すさまじいほどの関心を持っている」
そう評するのは、バフェットと同じく巨万の富を手に入れたマイクロソフト創業者のビル・ゲイツである。彼は自分より2回り以上も年上ながら矍鑠として事業に邁進するバフェットに敬意を表しており、その姿勢から多くのことを学ばされると語っている。
数字に夢中になる
一方、ウォール街の元アナリストで、バフェット伝『The Snowball』を著したアリス・シュローダーは、バフェットが生まれ育った時代と土地に着目する。
シュローダーによれば、バフェットはまさに「オマハの特産物」のような人物であるという。オマハでは謙遜、倹約、正直な言動が美徳とされ、バフェットが育った時代は特にその傾向が強い。バフェットはまさにそれを地で行く人だったのだ。
実際、バフェットは青年期の一時を除いて、生まれてからずっとオマハに住み続けている。仕事でも暮らしでも拠点となった。まさにこのオマハでバフェットは金融に目覚め、その飽くなき挑戦が始まったのである。
「私は、ハッと気づいたのです。ちょうど子供が急にピアノに興味を持ったときとか、何かに取りつかれるようにあることに夢中になるのに似ています。私は常に数字が好きでした。そして将来死ぬまで株に興味を持ち続けるだろうと思いました。まだ8歳か9歳ぐらいのときです。そのころにはすべての銘柄の株価を追いかけていました。叔母が世界年鑑をくれたときには、都市のサイズにかかわらず、すべての都市の人口を暗記しました。とにかく数字が好きだったのです。ビジネスに関係なくてもです」
バフェットは単に数字を覚えるのが得意なだけでなく、ある数字が全体の中でどのような働きをしているのか適格に把握する特異な能力を持っていた。これは後のサクセスストーリーの根幹ともいうべき重要な才能だった。
バフェット少年の小さな「事業」
アリス・シュローダーは、このバフェットの才能については幼少期の家庭の事情も影響したのではないかと見ている。世界恐慌の時代に育ったバフェットの家庭には、お金がほとんどなく経済的に困窮していた。彼の父親が株式ブローカーの仕事を失ったのが大きな理由であった。そのため、家族が食卓を囲むとき、きまって話題はお金に関することだったという。
しかし、バフェットは単にお金の話をするだけでは飽き足らなかったと振り返る。
「祖父が食料品店を経営していました。私はよくそこでコーラーを六本二五セントで仕入れて、一本5セントで売っていました。全部売れたら5セントの儲けです。また、土曜の夕刊や女性誌を戸別訪問して売ったりもしていました。小さなことですが、本当にたくさんの事業を行なっていました。もちろん、すべてがうまくいったわけではありませんが、小さいころからビジネスが好きだったのです」
バフェットの半生を綴った『Buffett: The Making of an American Capitalist』の著者でジャーナリストのロジャー・ローウェンスタインは、バフェットが幼いころに行なったユニークな事業を紹介している。それによると、バフェットはゴルフ場に行っては転がっているゴルフボールを集めて販売していたという。それも近所の子供に手伝ってもらい、手広く行なっていた。また、競馬場に行っては落ちている未使用のタバコを拾い集めたりもしていた。
当時のバフェットはまだ10歳そこそこだったが、すでに自分がお金を稼ぎたいことを自覚していたのである。ビジネスへの投資はもっとその後のことになるが、お金を稼ぐことは早くから彼の一部となっていた。
他にも、バフェットは野球場でポップコーンやピーナッツの販売をするなど、さまざまな小さな「事業」をした。
初めての株式投資で得たもの
バフェットは6歳からの5年間である程度の資金を貯めると、姉のドリスを誘って夢見ていた株式の投資に初めてチャレンジした。1942年、弱冠11歳での投資をバフェットは鮮明に記憶している。
「初めて購入した株は、シティーズ・サービスという石油関連会社の優先株でした。保留配当が20年ぐらいのあいだずっと続いていたため、累積配当金が膨らんでいました。私は持っているお金をすべてつぎ込んで、一株38ドルと25セントで3株買いました。そのときの全財産をつぎ込んだのです」
シティーズ・サービスという会社は、バフェットの父ハワードが証券会社で働いていたときに顧客に長年販売していた銘柄で、バフェットは父から聞いて覚えていた。バフェットに勧められて姉も3株購入したが、その後27ドルに急落してしまう。
責任感が強かったバフェットは、姉から問い詰められたために40ドルに戻ったところですぐに売ってしまった。2人合わせて5ドルほどの儲けとなり、姉はそれで納得したものの、直後に202ドルにはね上がった。バフェットはこの失敗から「いくらで買ったかに囚われすぎないこと」「何も考えずに小さな利益を追いかけること」「自分の失敗が他の人に迷惑をかけること」を学び、人生で大きな教訓を得たと語っている。
新聞配達で元手を築く
ちょうどそのころ、バフェットの父が共和党の下院議員に当選した。そして1943年に、一家は住み慣れたオマハを離れ、ワシントンへ移住する。これは、バフェットにとって新しい事業を始めるきっかけとなった。後に社外取締役に就くワシントン・ポスト紙の新聞配達だ。
「(私は新聞配達員として)まず2、3のルートを任されました。その後、配達時間に正確だったことが評価され、重要なルートを任されるようになりました。おそらく月に150ドルぐらいは稼いでいたと思います。当時としては結構なお金です。学校に行く前にそれだけ稼ぐことができましたからね。いい時代でした」
この新聞配達によって稼いだお金は、後のバフェット帝国を築く元手となったという。
「そしてついに、9800ドルを集めました。ほとんどが新聞配達によるものです。(新聞は合計で)大体50万部ぐらい配ったと思います。一部あたり約1セント稼げますから、それだけで5000ドルになります」
バフェットは高校を卒業したら、ビジネスマン、または投資家としての道を歩もうと考えていた。自分は何をしたいか分かっていたし、生活できるだけのお金は自分で稼げると思っていた。
しかし、父親に諭され、17歳のバフェットは大学への進学を選び、ペンシルベニア大学のウォートン・スクールでの寮生活が始まった。
ユニークな寮生活
この寮生活でバフェットは同郷のネブラスカ州出身のチャールズ・ピーターソンというルームメイトに出会う。
チャールズはバフェットの5歳年上で、兵役の経験もあった。バフェットの家族は、未熟な息子をしっかりしたチャールズが先輩としていろいろと指導してくれることを期待していた。一方、チャールズの家族は、毎晩遊び回っていた息子がバフェットを見て少しでも落ち着いてくれればと思っていたという。
チャールズはバフェットの印象を次のように記憶している。
「彼は本当に幼稚なやつでした。ふだんはテニスシューズを履いていて、たまに別の靴を履くと左右別々の色だったりするのです。黒と茶色の別々の靴を履いていて、そのことに気づかないのです。髪はいつもボサボサでした」
しかし、チャールズによると、バフェットは学問の面ではかなりすぐれていたという。
「毎日学校から戻ってくると、私は何時間も勉強していました。一方、バフェットはというと、適当に本を数冊取り上げると、座ってパラパラと読み始めるだけです。2、3のコースを修了するのに数週間しかかかっていませんでした。彼にはイメージで記憶する能力があったのでしょう。私にはそれがありませんでした」
そして、バフェットの余った時間の過ごし方はとてもユニークだった。
「バフェットは当時、アル・ジョルソンにはまっていました。『マミー、マミー、愛してるよマミー!』って口ずさみながら、レコードを何時間もかけていました。私は気が狂いそうになりましたよ」
バフェットは、物事に熱中しやすい性格の持ち主であった。あるとき、学生自治会の施設でチャールズとバフェットが卓球の勝負をしたところ、バフェットはまったく歯が立たなかった。復讐に燃えたバフェットは、その後一日に何時間も卓球の練習をするようになり、おかげでそのあいだ、チャールズは静かに勉強をすることができたという。
50セントで〝1ドル札〟を買う
バフェットは大学生活のかたわらで政治的な活動にも顔を出していたことも告白している。
「私は学生のとき、ペンシルベニア大学のヤング・リパブリカン・クラブ(米国共和党青年クラブ)の代表をしていました。共和党の全国大会にも派遣されていました。私は歴とした共和党員だったのです」
しかし、フィラデルフィアでの大学生活に少々飽きつつあったバフェットは、父親が上院議員の再選に失敗したことを契機に、1949年、故郷のオマハにあるネブラスカ大学へ編入する。そして大学を難なく卒業したのち、ハーバード・ビジネススクールの門を叩き、面接に臨んだ。
「そのとき、私は19歳でした。ハーバードの面接官は私と大体十分ぐらい話をして、『また今度来てください』と言い放ったのです。面接に落ちたのは明らかでしたね(笑)」
ハーバード大学への入学を断られて、バフェットはコロンビア大学のビジネススクールを目指した。そこでは、ウォール街の異端者ベンジャミン・グレアム教授が教鞭を執っていた。バフェットは書類審査のみでコロンビア大学院に入学し、グレアムの投資哲学を学ぶ。その教えは極めてシンプルで、ウォール街の従来の考えとは対立するものだったという。
「多くの人は株式市場の動きを観察してそこからヒントを得ようとしています。ところがグレアムは、市場は単に取引をする場所であって、情報を得る場所ではないと言っていました。簡単に言うと、市場の動きは間違うことがあるということです。この考えは多くの人と真っ向から対立する見解でした。そして、グレアムはよく『市場は時として大間違いをしている』と言っていました。それを理解するには、株の売買を単なる『投機』ではなく、その会社の『ビジネスを買う』という視点で見ることが必要です。そうすれば、市場が本当に間違っていることにいずれ気がつくはずです」
グレアムの手法は、レーダーからはずれて過小評価された株を見つけ出すことだった。バフェットは次第にグレアムの投資哲学に魅了され、熱心な信奉者になっていった。
「グレアムから『50セントで買える〝1ドル札〟を見つけなさい』と教わりました。もちろん、必ずしもその〝1ドル札〟に値する株の価値がすぐに上がることはないかもしれません。私はこの根本的な考え方を『街を歩いて吸い残しがあるタバコの吸い殻を見つける』ことに例えています。吸い殻は魅力的ではありませんが、コストがかからないのにまだそこには『吸う価値』が残されているのです」
ビジネスマンとして欠けていたもの
グレアムの投資哲学を学んだバフェットは、1951年に経済学で修士号を取得した。卒業後はウォール街で働こうとしたが、父親とグレアムに反対され、故郷のオマハに戻った。父親が経営する証券会社でアナリストとして下積みをした後、グレアムの投資組合に移り、組合が解散する1956年まで働いた。バフェットは、当時の苦労を懐かしむ。
「私はセールストークが苦手でした。20歳ぐらいのとき、16歳ぐらいにしか見えませんでしたし、立ち居振る舞いはおそらく12歳ぐらいだったでしょう。私はいろんな人を訪ねに行って投資の話をしました。みなさんいつも親切に対応してくれました。私は正確な情報と数字を並べて、これこれこういった理由で是非ともこの株を買うべきだと一生懸命に説明しました。そして説明が終わった後、頭の中で『一、二、三』と数えます。するとみなさん決まって、『君のお父さんはどう考えているのかな?』という反応なんです。ぶん殴ってやりたいと思いましたよ(笑)」
なかなか思うようにいかない状況の中で、彼はもっと巧みなセールスマンにならなければいけないと考えるようになった。そこで、自己啓発の権威であるデール・カーネギー(1888~1955)の講座を受けるようになる。
「コミュニケーションスキルを磨かなければいけないと思っていました。特に大勢の前で話すスキルです。人前で話すことを怖がっていたら、人生やっていけないことは分かっていました。そこで、デール・カーネギーのコースを受講したのです」
彼はそこで学んだスキルをさっそく活かすことになる。同郷のスーザン・トンプソンに告白して付き合い始めたのだ。
「私は受講中に彼女にプロポーズしました。せっかく受講料を払ったのですから、有効に活用しないといけません(笑)。私はそのとき、成功する『頭脳』はあったかもしれませんが『人格』が伴っていませんでした。彼女に会って初めて『人格』が備わったと思っています」
その後、1952年にスーザンと結婚。バフェットのキャリアの歯車がようやくスムーズに動き始めた。他の人が無視していた株を買いあさり、その株が少しずつ上昇していったのだ。そして徐々に評判が広まり、「あの子はどうやら自分が何をしているかわかっているみたいだ」と社会から認められるようになっていった。
そして、グレアム哲学を身に着け、資金も貯めたバフェットは、1957年に故郷のオマハで自分の事業を立ち上げた。このとき、バフェットはペンシルベニア大学の寮でルームメイトだったチャールズに、「パートナーシップ(投資組合)をつくろうと思っているのだけど、君も入らないか?」と誘う。チャールズは「もちろん入るよ」と二つ返事でバフェットの事業に参加した。この投資話に乗った者は、当初わずか7、8人にすぎず、小さな事業としての出発であったが、バフェットにとっては、己の力がどこまで通用するかを試す大きな一歩であった。