ベトナム人と仲良くなるための雑学⑦:「ベトナム人にノーベル賞を辞退した英雄がいる」

(レ・ドゥク・ト(左)とヘンリー・キッシンジャー(右))

1969年にアメリカ大統領に就任した共和党のリチャード・ニクソンは就任以前からベトナム戦争の撤退を方針としていました。そして就任直後の同年1月からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との和平交渉を開始させます。

和平交渉では北ベトナム側のレ・ドゥク・トが交渉責任者となっている秘密交渉と、スアントゥイ(Xuân Thủy)が責任者となっている公開会議の二つが同時並行で進められました。

キッシンジャーは公開の和平会議よりも秘密交渉を多く重ねました。アメリカの講和条件を有利にするために72年に大規模な北爆を行ったため交渉は難航しますが交渉開始から4年以上たった1973年にアメリカ軍の撤退とベトナムの統一を基本的な内容としたパリ協定(1月27日)が結ばれます。この協定調印の2日後の1月29日にニクソン大統領はベトナム戦争の終結を宣言します。

この協定を実現させた功績が評価され両国の交渉責任者だったキッシンジャーとレ・ドゥク・トにノーベル平和賞受賞が決定されましたがレは「私の国にはまだ平和が訪れていない」と言って、受賞を拒否しました。彼はノーベル平和賞が決まってから辞退した世界でただ一人の人物です(マハトマ・ガンジーは平和賞の候補者に上がった時に辞退しています)。

ノーベル賞全体を見ても受賞を辞退したのは64年に文学賞に選ばれたジャン=ポール・サルトル以来2人目のことです。

実際、パリ協定締結を経てアメリカ軍が撤退した後も北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続きます。アメリカの後ろ盾を失った南ベトナムは、1975年にホーチミン作戦によるサイゴン(現ホーチミン)陥落によってようやくベトナム戦争が終結します。

ベトナム戦争は戦闘の悲惨さやアメリカから戦場へ送られる若者の物語、報道による反戦運動や、この戦争にまつわる様々な映画が作られ、いまでも語り継がれていますが、レ・ドゥク・トの平和賞拒否はあまり知られていません。

南北統一後のベトナムで、レ・ドゥク・トは中央委員を歴任します。その後は歴史の表舞台に立つことはなく1990年に亡くなりますが、いまでもベトナム人は彼の功績をたたえています。

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