光と影:ノーベル賞受賞の陰で進行する「反科学」の脅威

希望をもたらす科学の力

2025年10月9日、日本の科学界に明るいニュースが届いた。京都大学の北川進特別教授(74)がノーベル化学賞を受賞したのだ。受賞理由は「金属有機構造体(MOF)の開発」。この技術は、1グラムあたりサッカーコート並みの表面積を持つ微細な穴で特定の物質を効率的に分離・回収できる革命的なものだ。

特に注目すべきは、この技術が脱炭素社会の実現に直接貢献することだ。工場の排ガスや大気中のCO2を低コストで分離・回収できれば、温室効果ガス削減の切り札となる。北川教授は受賞の喜びを「空気を捕獲して分離し、CO2や酸素を得て再利用する。このサイクルは私たちの惑星にとって非常に重要だ」と語った。30年以上の地道な研究が、人類の未来を救う技術として結実したのである。

科学者たちの警鐘

しかし、このような科学の輝かしい成果の陰で、深刻な「反科学運動」が進行している。奇しくも同じ時期、アメリカでは二人の著名な科学者が『Science Under Siege(包囲下の科学)』という衝撃的な本を出版した。

著者の一人、マイケル・マン博士は気候変動研究の第一人者。彼が発表した「ホッケースティック曲線」は、過去千年の気温変化を示し、20世紀の温暖化が前例のない速さで進行していることを証明した。もう一人のピーター・ホテス博士は、低コストのCOVIDワクチンを開発し、インドやインドネシアで1億人に接種された実績を持つ。

組織的な攻撃の実態

両博士は、科学的事実を発表した後、組織的な攻撃を受けた。マン博士は「私を信用失墜させ、脅迫し、職を失わせようとする攻撃」を受け、ホテス博士はワクチンと自閉症の関連を否定したことで「反ワクチン団体の公敵ナンバーワン」となった。

重要なのは、これらの攻撃が「単なる誤情報」ではないということだ。本書が明らかにするのは、背後に巨大な経済的・政治的利益が絡む組織的な構造である。

ダークマネーと国家の影

著者たちは、反科学運動の背後にいる勢力を「5つのP」として分類する:

番号Pの要素説明
1️⃣Plutocrats(超富裕層)ダークマネー組織を通じて科学攻撃を資金援助。環境規制や公衆衛生政策を脅威とみなす。
2️⃣Petro-states(石油国家)グリーンエネルギー移行を阻止する国家。ロシアやサウジアラビア、そしてトランプ政権下の米国も含む。
3️⃣Press(メディア)FOXニュースや一部保守系紙が反科学的論調を広める。「中立報道」が誤情報を増幅。
4️⃣Politicians(政治家)化石燃料業界の支援を受け、科学を敵視する政策を推進。
5️⃣Pseudo-science(疑似科学産業)健康・ウェルネス産業などが「自然療法」や陰謀論を商品化。

Plutocrats(超富裕層)が「ダークマネー組織」に資金提供し、気候変動科学とワクチンの両方を攻撃している。彼らにとって、環境規制や公衆衛生規制は、化石燃料産業への投資価値を脅かし、既存のビジネスモデルを破壊する「脅威」なのだ。

Petro-states(石油国家)も深く関与している。ロシアやサウジアラビアは、グリーンエネルギーへの移行を阻止するため、あらゆる手段を講じている。著者たちは、現在のアメリカ(トランプ政権)も化石燃料産業の利益に基づく政策を推進する「ペトロステート」だと指摘する。

Press(メディア)の役割も見逃せない。ルパート・マードックのFOXニュースやウォールストリート・ジャーナルは反科学的内容を積極的に推進し、一部の主要メディアも「中立性」の名のもとに、科学的コンセンサスと反科学的主張を同列に扱っている。

健康産業の暗い側面

特に衝撃的なのは、「健康ウェルネス・インフルエンサー産業」の存在だ。イベルメクチンやヒドロキシクロロキンなどの代替療法を推進し、ワクチンを否定することがビジネスモデルの一部となっている。科学者を「悪役」として描き、「自然な」解決策を売り込む。これは公衆衛生を犠牲にした利益追求に他ならない。

製薬業界の構造的矛盾

ワクチンへの懐疑的な見方が広がる背景には、製薬業界の構造的な問題も潜んでいる。私自身、ある製薬会社の関係者から聞いた話が忘れられない。「今年はあまりインフルエンザや風邪が流行りそうにないから、売上に影響がある」という言葉だった。

この発言が示唆するのは恐ろしい現実だ。製薬会社のビジネスモデルは、基本的に「病気の存在」を前提としている。人々が健康であればあるほど、売上は下がる。この構造的矛盾が、時として負のインセンティブとして働く可能性は否定できない。

もちろん、多くの製薬会社や研究者は人類の健康のために誠実に働いている。しかし、利益を追求する企業である以上、「病気の予防」よりも「病気の治療」の方が収益性が高いという事実は、私たちが注視すべき問題だ。この構造が、一部の勢力による反ワクチン運動や代替医療ビジネスに付け入る隙を与えているとも言える。

真鍋淑郎氏が示した科学的真実

ここで思い出されるのが、2021年にノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏の功績だ。現在はアメリカ国籍を取得している真鍋氏は、1960年代という早い時期から、大気中のCO2濃度が倍増すれば地球の気温が約2.3度上昇することを、物理モデルを用いて科学的に証明した。

その理論は、今や現実となっている。

「CO₂と温暖化の関係は意見ではない。物理法則だ」

真鍋氏の研究は、CO2と温暖化の関係を「意見」や「仮説」ではなく、物理法則に基づく「科学的事実」として確立した。それから60年以上経った今、彼の予測は現実のものとなっている。しかし皮肉なことに、これほど明確な科学的証拠があるにもかかわらず、化石燃料産業は莫大な資金を投じて、この事実を否定し続けているのだ。

真鍋氏がアメリカに移住した理由の一つに、日本の研究環境の問題があったと言われている。科学者が純粋に研究に打ち込める環境を整えることの重要性を、私たちは改めて認識すべきだろう。

科学と利益の狭間で

北川教授のMOF技術は、真鍋氏が警鐘を鳴らしたCO2問題に対する一つの解答だ。しかし、この技術が普及すれば、化石燃料産業の利益は確実に損なわれる。ここに、科学的進歩と既得権益の根本的な対立構造がある。

『Science Under Siege』の著者たちは、科学者として異例の行動を取った。彼らは研究室から出て、名指しで批判を行い、政治的とも取られかねない発言をしている。マン博士の「私は政治に関わりたくなかった。しかし政治が私のところにやってきた」という言葉は、現代の科学者が直面するジレンマを象徴している。

私たちにできること

科学的事実を守るために、私たち市民にも責任がある。まず、情報の背後にある経済的動機を見抜く批判的思考力を養うことだ。「誰が利益を得るのか」という問いは、情報の信頼性を判断する重要な指標となる。

また、短期的な利益ではなく、長期的な人類の福祉を考える視点も必要だ。製薬会社の売上よりも人々の健康を、化石燃料産業の利益よりも地球環境を優先する価値観を、社会全体で共有しなければならない。

北川教授が30年かけて築いた成果、真鍋氏が60年前に証明した真実、そしてホテス博士が1億人に届けたワクチン。これらの科学の成果を、ダークマネーや既得権益に否定させてはならない。

科学は完璧ではない。しかし、それは人類が持つ最も信頼できる知識体系だ。科学的手法による検証と、透明性のある議論を通じて、私たちは真実に近づくことができる。反科学の嵐が吹き荒れる今だからこそ、科学の灯を守り続けることが、私たちの未来を守ることにつながるのである。

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