ウォーレン・バフェット物語とその人生(終)

ネブラスカ州オマハで生まれ育ったウォーレン・バフェットは、22歳で結婚、3人の子宝に恵まれた。しかし、家庭の事は全て妻に任せ、自らはパートナーシップ(投資組合)の運用に没頭した。成績は抜群で、株式を運用しながら様々な会社を手中に収め、投資家から絶大な信頼を得ていた。また、幼少から読み親しんだ新聞業界の株を買い進め、メディア業界にも進出。しかし、政財界との付き合いが深まるにつれ、疎外感を強めた妻が別居。また、ウォール街の権化とも言うべき企業の株を購入したことで、大きな災いが訪れようとしていた。

本シリーズはブルームバーグ(米国金融情報サービス会社)で放送されたインタビュー映像Warren Buffett Revealed: Bloomberg Game Changersの音声を翻訳し、加筆、編集して作成した。(翻訳・執筆:島田亮司)

ウォール街の帝王が失脚

大手投資銀行ソロモン・ブラザーズの発行済み株式の12パーセントを取得し、取締役にも就任したバフェットに、ある日一本の電話がかかってきた。あるトレーダーが不正入札を行い、競争相手を追いやり、国債市場で不当に儲けを増やしていたという内容だった。当時の副会長デリック・モーガン(後の会長兼CEO)は、このスキャンダルの当事者ではなかったが、大きな衝撃を受けたと話す。

「私からみて明らかに法律違反でした。国内でとても重要な国債市場のシステムに不正を加えてしまったのです。米国財務省が絡んでいるので、そこのお役人は穏やかではなかったでしょう」

もっと悪いことにソロモンの経営陣はこの不正を把握しながら、すぐに当局へ報告しなかったのだ。その時の状況についてバフェットは苦々しい思いで語る。

「報告が遅れたことで、米国政府、連邦準備銀行(米国の中央銀行)、財務省他、皆激怒していました。当然でしょう。数々の不正に気付きながら、正しく対処しなかったわけですから」

そして、当時ソロモン・ブラザーズのCEOで「ウォール街の帝王」とまで呼ばれたジョン・グットフレンドが、批判の矢面に立った。

「その時のことは今でもはっきりと覚えています。『ニューヨーク・タイムズ』の一面の右側に私の写真が、間抜けな顔で掲載されていたのです。私の悪評が全米に知れ渡った瞬間です。人生で最悪の日でした。いまでもそう思っています。トーマス・シュトラウス(当時社長)、ジョン・メリウェザー(当時副会長)に、我々は辞任すべきだと提言しました」

ウォール街の関係者は、ソロモンが経営幹部の辞任と引き換えに、国債市場での取引から当局に締め出されるのを免れようとしていると噂した。しかし、会社を救うために幹部の辞任はしかたがないことだった。

モーガンは、グットフレンドが弁護士を引き連れて退場するシーンを今でも鮮明に覚えている。そして、首を落とされたこの巨大な金融機関は、糸の切れた風船のようにただ宙を漂う存在になった。しかし、幹部の辞任だけで会社を救うことはできないと悟ったグットフレンドは、最後の一手を打つ。ネブラスカ州オマハの大株主に電話を入れ救援を頼んだのだ。ジャーナリストでベストセラー『Buffett: The Making of an American Capitalist』の著者ロジャー・ローウェンスタインも、これしか解決策はなかっただろうと語る。

「グットフレンドはバフェットに電話をして懇願しました。『私は辞任します。私に代わってあなたにCEOになってほしい』と。次期CEOには、政府に信頼があり、もっと言えばアメリカ全土に信頼がある人を迎える必要があったのです。『ウォール街のこの男なら信用できる』という人物です。実際、当時のアメリカにこれに該当する人はバフェットしかいなかったでしょう」

頼まれたバフェット自身も、これしか解決方法はないだろうと腹をくくった。

「私はこのスキャンダルと無関係でしたから、汚れていませんでした。激怒している連中が、私がトップに立てば信用するかもしれない僅かな期待があったのです。激怒している人はたくさんいましたから」

信用は五分で崩れる

バフェットはソロモンの本社があるニューヨークに急きょ出向いた。社内は騒然として、パニック状態だった。ローウェンスタインは「清廉潔白を強く求められる金融機関が法律に違反し起訴されたら、現在も未来もありません。この状態を放置していたら会社はつぶれていたでしょう」と話す。

モーガンも同様の危機感を抱いていた。このままでは会社は倒産し、同業他社にも多大な影響を与えるだろうと危惧した。彼はバフェットに面と向かって正直に話した。バフェット自身も真相が明らかになるにつれ、事の重大さを強く認識していったと、バフェット公認の自伝『The Snowball』の著者アリス・シュローダーは分析する。

「バフェットはよく口にしていました。『信用は一生かかって築かれるが、崩れるときは5分しかかからない』。ソロモンがまさにその5分の真っただ中にいると。彼は事態をとても真剣に捉えるようになりました」

こうして火中の栗を拾うことになったバフェットは、非難の集中砲火を浴び、沈みゆく会社の舵取りを任された。が、直後に予期していた最悪の事態が起こった。1991年8月18日、財務省長官ニコラス・ブレイディはソロモンを国債市場の取引から締め出すことを決定したのだ。おあつらえ向きにも、同日の午後2時半に記者会見を開き、バフェットの臨時CEO就任を発表することになっていた。バフェットはその時のことを克明に記憶している。

「それは日曜日の午前10時ごろでした。米国財務省がソロモンを政府の信用リストから削除したのです。プライマリーディーラー資格の剥奪です。それは死刑宣告に等しいものです。私はなんとしても月曜日に東京市場が開かれる前に、その決定を覆さなければなりませんでした」

バフェットに残された時間はおよそ7時間。翌日の月曜日に東京市場が始まったら、ソロモンの運命は決定的になる。つまり、日本の銀行がソロモンの株を売って現金化し、取り付け騒ぎを引き起こすことが確実だからだ。そうなったらソロモンの資金や流動資産が一気になくなる。その後、取り付け騒ぎがロンドン市場に波及し、ニューヨーク市場が開かれる時には、ソロモンは瀕死の状態になることは火を見るより明らかだった。

バフェットは右腕のチャーリー・マンガーを急きょニューヨークに呼び、緊急の役員会議を開いた。マンガーもソロモンの取締役に名を連ねていたため、自身にとっても焦眉の急であることは重々承知していた。

「その時のことは一生忘れないでしょう。人生で最も衝撃的な時間でした。もしかしたら国家的な大事件になっていたかもしれないのです。その時、政府は我々に向かって『地獄に落ちるがいい』と言っているようにしか思えませんでした」

バフェットは半狂乱でワシントンに一日中電話をかけまくった。政府に引き下がってほしいと、文字通り泣きついたのだ。会社の舵取りを一任されたバフェットは、文字通り死にもの狂いだった。

「怖かったです。怖さで凍りつくようでした。話しているときの私の声にも表れていたでしょう。財務省長官ニコラス・ブレイディやニューヨーク連邦準備銀行総裁ジェラルド・コーリガンなどに電話をして話しました。無理もないことですが、彼らはソロモンのしたことに怒り心頭でした。多くの人がその週末に私たちが倒産すればいいと思っていました。もしそんなことになったら、どんなことが起こるか想像できませんでした」

マンガーによると、最終的にはニコラス・ブレイディと電話で話をしてバフェットが拝み倒すことで、危機がギリギリのところで回避されたという。

「ニコラスと話しているとき、ウォーレンの声には明らかに感情に訴えかける強い思いが感じられました。ニコラスはそれに気付き狼狽えたのです。もしかしたらウォーレンは正しい、少し引き下がった方がいいかもしれない、と思ったのです。大きく引き下がったわけではありません。少しだけです。ですが最悪の事態は免れました」

「少し引き下がった」というのは、この件の真相が全て明らかになるまで執行を猶予されたのだ。その間は自社で国債を購入できても、クライアントに代わって国債を購入することはできなくなった。九死に一生を得たバフェットは、明らかにやつれた状態で、ソロモンの会見場で待つ多くの記者の前に現れた。そして、弱弱しい声で次のように語った。

「この度の件で、米国財務省はソロモンの経営陣が刷新されて、新しく出直すことを了承しました。会社、そして私個人としても、私たちが過去にどのような過ちを犯したのか、全力で解明するため、財務省にあらゆる協力を惜しみません。そして今後、決して同じ過ちを犯さないことを約束します。財務省はそれを望んでいますし、当然のことです」

白馬の王子の誕生

危機が完全に去ったわけではなかったが、当面は回避された。仮にソロモンが倒産した場合、世界的な金融危機に発展する可能性が高かった。この件が一段落ついたことで、バフェットはウォール街で大きな注目を集めた。ソロモンの混乱を静めた「白馬の王子」として称えられ、行く先々でサインを求められるヒーローになったのだ。また、講演会にも引っ張りだこで、アメリカ法曹協会での講演会では次のような皮肉を言っている。

「私は今年アメリカ法曹協会のマンオブザイヤーを受賞することになると思いますよ。会社は法律問題で相当なお金を払っていますからね(笑)」

実際、この事件が起こってから、ソロモンは数多くの訴訟問題を抱えることになった。一方、悪役とされたジョン・グットフレンドは事件を次のように振り返る。

「悪役が必要なんです。みんなに迷惑をかけて悪行を働いた人物が。私はその悪役という役割に抗うことができませんでした。抗ってソロモンを危険に晒すことは避けたかったのです。ウォーレンとマンガーは私たち悪役の代弁者ではありませんでした。彼らは清廉潔白を貫きました。悪役は葬り去られたのです。これも人生です」

ソロモンに13年間トップに君臨したグットフレンドは汚名を背負ったまま去った。しかしこれで全てが片付いたわけではなかった。バフェットは混乱が最終的に収束するまで陣頭指揮を執り続けた。本当に大変な日々だったとバフェットは振り返る。

「私はそこに9カ月と4日いました。この先20年経ってもこの数字を忘れることはないでしょう。勿論、それは必要なことでしたし、とても重要な任務でした。こんな経験は他の人に味わってほしくないですし、どんな会社にもこのようなことは起こってほしくないと思います。ですがある意味、このことでいろいろと学ぶことができました」

政府から信頼されていたバフェットが、コンプライアンスを社内に徹底し改革を進めた結果、ソロモンが1億9千万ドルの罰金を払い、さらに損害賠償基金に1億ドルを供出することで、事件は終結した。

水は一滴も飲まない

1993年、バークシャー・ハサウェイの株が1株1万7千ドルに跳ね上がった。超億万長者になったバフェットは国内外問わず、行く先々で注目されるようになった。しかし、海外へ行く機会が増えてもバフェットの染みついた習慣は変わることはなかった。長女スージーは父親の食生活について具体的に語る。

「ウォーレンの食生活について話しましょう。野菜に関しては、穂軸付きのトウモロコシ、フライドポテト、ハッシュブラウン。フルーツは、バナナクリームパイ、イチゴのショートケーキ。フルーツはそれだけ。それから、一日に何本かのチェリーコークを飲みます。本当に冗談ではなく、彼が水を口にしたのをいままで一度も見たことがありません」

日本で正規販売はされていないチェリーコーク

日本で正規販売はされていないチェリーコーク

スタンフォード・リプシーもバフェットは食事に関して強い拘りがあると語る。

「以前、彼が中国に行くとき、マクドナルドのクーポン券を束で持って行ったのを覚えています。滞在中もずっとマクドナルドのハンバーガーを食べていましたよ」

キャンバスに絵を描く

1990年代から2000年代にかけてバークシャー・ハサウェイの事業規模は、様々な企業を傘下に入れながら急速に拡大した。米国最大の家具小売店のネブラスカ・ファーニチャー・マート、トレーラーハウスなどの移動式住宅の最大手メーカーのクレイトン・ホームズ、下着メーカーのフルート・オブ・ザ・ルーム、老舗ペンキメーカーのベンジャミン・ムーア、また全国展開しているソフトクリームやファストフードのチェーン店デイリー・クイーン、自動車保険で業界2位のGEICOなど、70社以上を子会社にした。総従業員数は25万人を超える。

スイスに本社を置く銀行UBSの元マネージング・ディレクターのグレン・タングは、バークシャー・ハサウェイが抱えている会社は、バフェットが個人的に選んだものばかりだと言う。流行のIT株には手を出さず、堅実に事業を営んで利益を上げている会社を選ぶ。選ばれた会社はかつてない脚光を浴び、さらに株価が上昇する。それが俗に言う「バフェットプレミアム」だ。

またローウェンスタインによると、バフェットは自分のしていることをよく芸術に例えると話す。「事業は彼のキャンバスであり、ピカソのように表現するんだと。彼はできる限りキャンバスに絵を描き続けたいと思っています。これが彼の全てを表しているのではないでしょうか」

80歳を超えてからもビジネスの絵を描き続ける意欲は変わらない。近年では、2010年2月に全米2位の規模を誇るBNSF鉄道の親会社を340億ドルで取得。2011年12月には1885年創業の地元オマハの地方紙オマハ・ワールドヘラルドを買収し世間を驚かせる。新興企業の株ではなく、2社とも昔ながらの事業を営む老舗企業だったからだとシュローダーは語る。

「ウォーレン・バフェットが唐突にBNSFの買収を提案したのです。驚きでした。鉄道事業には様々な価値があり、以前は注目されていましたが、その価値に気付いている人は少なかったのです。バフェットは常にこのようなことを続けてきました。彼が投資をすると、みなさんハッと気付いて『前から知ってたけど、どうして気付かなかったんだろう』と言うのです」

そんなバフェットに注目している人が一堂に会する機会がある。それが、オマハで毎年行われるバークシャー・ハサウェイの年次総会だ。何十万もの株主が文字通り巡礼に訪れる。みなウォーレン・バフェットを一目見たい、彼の話を聞きたいと思ってやって来る人たちだ。会場となる巨大なスタジアムが満席になり、舞台にある折り畳み式のテーブルにスポットライトが当たる。そこには80代の老人が二人(バフェットとマンガー)座っているが、娘のスージーによると会場にいる誰よりも元気だと言う。

「彼は毎年の株主総会をとても楽しみにしています。そこでエネルギーをもらって、金曜日から日曜日の夜までノンストップで動き回ります。その週末が終わるとさらにエネルギッシュになるんです。ハンバーガーの食べ過ぎかもしれませんね。(笑)」

資産の九九%以上を寄付

世紀が変わり2000年代に入るとバフェットの資産は数百億ドルに達していた。その資産のほとんどを2つ年下の妻スーザンが運営するバフェット基金に寄付しようと考えていた。しかし、スーザンは2004年に食道癌を発症。その後回復するも、同年脳内出血で突然この世を去った。2人が600万ドルを食道癌研究のために寄付した矢先だった。彼女はバークシャー・ハサウェイの株を22パーセント保有しており、当時30億ドルあまりの遺産のほとんどを基金に寄付した。娘のスージーは母を亡くした悲しみを語る。

「家族にとって大変な惨劇でした。父は言葉では言い表せないほど母が好きでしたし、慕っていました。このことを思い出すといつも涙が出ます。父はこの悲しみを乗り越えることは完全にはできないでしょう。家族の誰もできないと思います。母は本当に特別な存在でした。私たちは父が先に亡くなると思っていたので、その後のことを色々と話したり計画したりしていました。母が先に旅立ってしまって本当にショックだったのです」

スーザンが亡くなって2年後、バフェットは娘の友人で同棲していたアストリッド・メンクスと再婚した。挙式は親族のみでひっそり執り行われた。そしてバフェットは死亡時に自らの資産の99パーセント以上を慈善団体に寄付すると明言。そのうちの大半はマイクロソフトのビル・ゲイツが設立したビル・アンド・メリンダ財団に行くことになっている。ゲイツは画期的だと賞賛する。

「これは歴史的なことでした。私たちのやる気レベルが飛躍的に上がりましたし、今までではできなかった様々な活動ができるようになりました。毎年の巨額な支援で今までの活動を倍に広げることができるようになりました」

適切な人に任せる

財団への寄附はバフェットが2006年6月に発表。彼が保有するバークシャー・ハサウェイのB種株式のおよそ1000万株を毎年分割して寄付するというものだ。当時の価値で総額307億ドルあまり。今でも史上最大の寄附額という。なお、ゲイツ夫妻が生存し財団で活動していること、毎年寄附された額と同額が助成に使われることなどの条件が課されている。バフェットはゲイツに大きな信頼を寄せていると語る。

「ゲイツ夫妻は若くてエネルギーがあります。慈善活動に私以上に一生懸命取り組んでくれるでしょう。私はその間、自分の好きなことに専念することができます。私がしたかった慈善活動をあの夫妻ならより適切に行ってくれるでしょう。それが最善の解決策です。私は今までもずっと『適切な人に任せる』ようにして来ましたから」

最大の保証人として

2007年、バークシャー・ハサウェイの株価は史上最高の15万ドルまで上昇。しかし、翌年バフェットが80歳の誕生日を迎えつつあるとき、世界的な金融危機が起こった。大手投資銀行グループのリーマン・ブラザーズが破綻したのだ。ダウ平均は500ポイント以上下落。多くの金融機関が多額の損失を出し、全米の経済が麻痺状態に陥った。バフェットは「ドミノ倒しのようでした。それも巨大なドミノです。次々にあっという間に倒れて行きました」とその時の混乱を語る。

ニューヨークの銀行マンは震え上がった。彼らは資金だけでなく、信頼できる人物の助けを必要とした。その人物こそバフェットだったとタングは話す。

「ウォーレン・バフェットはいわば最大の保証人です。彼のような聡明な人が資金をつぎ込むということは、十分なリターンが期待できるきちんとした判断があってのことだろうと思われます。それが人々の危機感を鎮める効果があったのです」

バフェットに頼みの綱を求めたのは、ゴールドマン・サックス、GE、バンク・オブ・アメリカなど錚々たる会社があった。もしバフェットがお墨付きを与えれば、その会社は信用され、いずれ株価は元に戻るだろうと思われる。そして実際にそうなったのだ。

長年の信用の蓄積に対して米国政府もバフェットにお墨付きを与えた。2011年、バフェットは文民の最高勲章である大統領自由勲章を受章。オバマ大統領は「確固とした正しい信念は人間としての徳だけでなく、ビジネスの得にもなることを彼は証明しました」とバフェットを称えた。

しかしバフェットが元気であるとはいえ去年2020年に90歳を迎えた。巨大企業バークシャー・ハサウェイの後継者は決まっているのだろうか。2011年にバフェットの後継者と目されていたデビッド・ソコルがスキャンダルに見舞われた。特殊化学分野会社のルーブリゾールの株を個人で事前に大量購入し、その会社をバークシャーが買収するよう画策したことがばれたのだ。バフェットはこのスキャンダルについて次のように語る。

「デビッドは株式の大量購入を事前に知らせるべきでした。そうすれば、私は彼に売却するにように迫ったでしょう。会社を買収することもなかったと思います。彼はこうしたことを事前にきちんと知らせるべきでした」

国の政治にも助言 (富裕層への課税を主張)

結局、ルーブリゾールは97億ドルでバークシャーに買収され、ソコルは会社を去った。 2012年、バフェットは初期の前立腺がんであることを告白した。同時にバークシャーの後継者を決めたと発表した。しかし、いまだにその名前は公表されていない。公にしたのは彼の政治経済に関する考え方だった。スージーは「80歳を過ぎてからは、自分の意見が聞き入れられ、社会を変えることができる場所を求めていたと思う」と語る。

ホワイトハウスで話し合うバフェット(左)とオバマ大統領(2010年7月)

ホワイトハウスで話し合うバフェット(左)とオバマ大統領(2010年7月)

 

バフェットが最も主張したかったことの一つに、税制の不平等がある。お金持ちはもっと税金を払うべきだと主張する。「大金持ちにもたくさんの種類があります。まともに税金を払っている人もいればそうでない人もいます。そうでない一部の大金持ちはとても少ない税金を払っています。実は私もその一人なのです」

2018年8月14日、ニューヨーク・タイムズ紙が税制に関するバフェットの意見を掲載した。バフェットは投資で儲けた人よりも汗を流して働いた人のほうがより高い税率を課されていることに疑問を呈し、国の赤字を解消するためにも、こうした税の不平等は解消すべきだと強く訴えた。さらにバフェットが知っている超大金持ちは高い税率を課されることをむしろ望んでいるとし、昔はもっと税率が高かったと訴えた。

2012年4月、オバマ大統領が富裕層の所得税率を30%に引き上げる課税強化法案(通称「バフェットルール」)を提起。民主党は審議入りに必要な60票をぎりぎり確保できず、廃案になってしまったが、オバマ政権は引き続き富裕層に対する課税を強化するスタンスだ。

バフェットの政治的な影響力は今でも大きいが、金融市場では最も影響力のある人物だとローウェンスタインは評する。

『TIME』(2012年1月23日号)の表紙を飾ったバフェット。アメリカ経済に楽観的だとするバフェットの意見を紹介している。

『TIME』(2012年1月23日号)の表紙を飾ったバフェット。アメリカ経済に楽観的だとするバフェットの意見を紹介している。

「バフェットはアメリカが金融市場にうつつを抜かしている時代に登場したとてもユニークな人物です。金融市場で他の誰よりも成功し、ウォール街を正常に戻した人物です。このような人物は今後も登場することはないでしょう」

大学時代のルームメイトでバフェットが設立した投資組合の一員でもあったチャールズ・ピーターソンは、バフェットは仕事に対してとても責任感が強かったと話す。

「彼はいままで会った人物で最も印象に残っている人です。彼はいろんな人たちと関わりましたが、関わった全ての人が成功しきちんと生計を立て、それぞれの人生をよりよいものにすることができたのです」

バフェットが40歳の時、ペニシリンアレルギーのために生死の淵を彷徨ったことがあった。3日間の入院を余儀なくされたが、退院後すぐに仕事に復帰した。投資組合の出資者に対する強い責任感と、負けず嫌いの性格が如実に現れたエピソードだ。

また、個人的な投資組合という小さな組織から、多数の会社を傘下に収める持株会社へと変貌し、その巨大な組織のCEOとして君臨するバフェットを、経営の観点から評するのはビル・ゲイツだ。

「バフェットほど稀有な経営者はいないと思います。彼のことを私たちはじっくりと観察して彼のビジネスに取り組む姿勢について深く学ぶことができます。彼が幼いころから一貫して取り組んできた経営に対する姿勢は、私たちに様々な示唆を与えてくれます」

「心の欲する所に従えども矩を踰えず」。孔子が70歳にして述べた有名な言葉だが、バフェットは既に90歳だ。

「本当に素晴らしい毎日を送っています。まさに自分の人生でやりたかったことをしているのです。それ以上に何を望みますか?」

(終)

参考文献:Alice Schroeder (2009)『Snowball』Bloomsbury Paperbacks、Janet Lowe (2007)『Warren Buffett Speaks: Wit and Wisdom from the World’s Greatest Investor』John Wiley & Sons

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