小ざさ:ビジネス成功の奥義は味への「こだわり」と「仕事の哲学」

創業70周年、販売商品2品、1坪の店舗、年商3億円の和菓子屋

「東京の住みたい街ランキング」で1位になる街、吉祥寺。その中心的存在の吉祥寺駅から徒歩約3分のところに、70年以上1坪だけの店舗で商売をしている和菓子屋「小ざさ」がある。毎朝、小ざさの商品を求めて、40年以上前から早朝の行列が途切れない。その商品の魅力と商売継続の秘訣は、創業者と店を継承した2代目社長の「商品と仕事」に対する考えにある。

毎日、早朝から行列ができる店

どんな企業でもそうだが、最初は小さな組織である。小ざさも例外ではない。1951年11月19日に創業した店は、狭い小さな掘立小屋で、父親、照男が作った1品、団子だけを朝8時から夜8時まで365日間立ちっぱなしで販売していたと、当時高校を卒業したばかりの現2代目社長、稲垣篤子は振り返る。その3年後の1954年、現在の場所に1坪の店舗を構えたのである。その時の商品が、今も販売し続けている和菓子2品、羊羹と最中である。

その味は今も変わらず、店がオープンする前の早朝5時前後からその和菓子を求めて行列ができる。中には前日にホテルに宿泊して買いにくるという人までいる。家まで2時間かかるという、列に並んでいたある年配の女性は、「安心して食べられるでしょ。原材料を厳選して、心を込めた手作りの品だし、それだけ手間をかけて作られているのに1本700円。他で買ったら倍以上はしますよ。しかも、甘すぎず口当たりもいいから、自分でも食べるけど手土産にちょうどいいのよ」と。

巷ではなかなか手に入らない「幻の羊羹」とまで言われ、「大変な思いをして購入してくださることは本当にありがたいです。客には本当に申し訳ない限りです」と篤子が言う。理由は1日に150本の羊羹しか作れないからだ。そのため、一人限定3本までとしているが、単純計算で50名しか購入できない。その羊羹の中には、客への「おわび」と小さなメッセージが差し込まれている。「品質のいい客に喜んでいただくものを作るのには1日150本が限度だから申し訳ないがお許しいただきたい」という内容だ。

小ざさでは「原料を厳選し、その配合や製法などに最大限の気配りと苦心をし、最高の羊羹を作るために非効率だが小さな鍋で高価な木炭を使って作っているから、それ以上作れない」と、篤子は話す。

モノづくりの原点

稲垣 篤子
稲垣 篤子

なぜ、ここまで手間をかけ苦心をする製造方法を敢えて取っているのか。客に喜んでいただくために、味も品質も変えないのである。篤子は、「小豆を本当に美味しく炊くために小さな釜を使うので、一度に3升が限度です。羊羹を作るにはいくつもの過程を経て、最後に集中し全身全霊を込めて羊羹を練っていく。こうしなければ最高に美味しい羊羹ができないからだ」と言う。実は作っている最中に、餡が紫色に輝き、透明感があってとても美しい輝きと色を見せる一瞬があり、それが最高の羊羹になる一瞬なのだと言う。それを逃すと最高に美味しい羊羹作りができないらしい。客に美味しいものを食べていただこうと、真心込めて羊羹を作る。そのために、無心になって羊羹と向き合う、対話しないといけないのだと言う。まるで禅の世界である。だから、決して意気込んで完璧なものにしてやるぞ、と思うのではなく、小豆の様子を見て聞こえない声を聞いてやる、いわば小豆が篤子に語りかけてくる、「ほら今だよ、美味しい羊羹になる瞬間だよ」と言ってくれる声を聞くようなものらしい。作り手にしてみれば、感動的な喜びを味わえる一瞬なのだそうだ。とは言え、この紫の輝きを見たのは、篤子が羊羹作りを始めて10年経って聞こえた羊羹の声なのだと言う。

この紫の一瞬の輝きを出すには、小豆の品質や煮え方、材料の配分、火加減、練り方など、すべての条件が揃わなければできないのだと言う。これを篤子は「小豆は生き物で羊羹も生き物です。毎日毎日、気温や湿度が違い、炭の状態も異なります。すべての条件がベストに揃うということはめったにありません。今日うまくいったから、同じように作ったとしても、明日もうまく行くとは限らないのです。そこが羊羹作りの難しさがあり、面白さがある」と言う。

ところが、この作り方を父が直接教えてくれたのではなく、作っているところを観察し、見よう見まねで覚えたと言う。出来上がったものは毎日味見をするが、客に出せるものができないと、父はただ「練りがたらん」「火が弱い」などしか言わず、どこがどう悪いのか当時はさっぱり分からなかった。ただ、いいものができると父は一言「うん」と言って首を立てにふるだけだった。実際、篤子がその時の羊羹を口にすると父がだめだというものと比べ「本当に美味しい」と感じたという。

それだけではなく、羊羹を練る時には、攪拌するため使用する木のヘラから伝わる感触と動きも大切で、それが羊羹のよしあしを決定するという。焦げないように練らなければならないが、そのために火を弱くしたり練り時間を少なくしたりすると風味がでず美味しい羊羹ができないのだと。だから、篤子は羊羹を練っている時、自分の五感をフルに使い、さらにこれまでの経験から得た第六感も使用して羊羹作りをする。

父の教え「共存共栄」「柔軟な発想」: 一番になれ

父はいつも決まって「とにかく一番美味しいものを作れ」と言っていたという。父は自宅の裏の倉庫のような建物で究極の羊羹を作ろうと試行錯誤を続けていた。そしてその父の教えを2代目として守り、いつも一番美味しいものを作ることは絶対に守っていかなければならないことだ篤子は信じる。良いものを残す伝統だろう。

オンリーワンの商品作り

父は小ざさ「だけ」の羊羹作りに傾注した。「羊羹には4種類ある。ぽくぽくした芋羊羹、ねちねちした一般的な羊羹、ぷりぷりした錦玉かん、そして口の中ですっと融ける水羊羹。小ざさの羊羹はこの4つの羊羹がど真ん中で交わったものだ」と父は言い、「これこそが小ざさの羊羹だ」というものを作るために、最高の材料を求め、その良さを最大限に引き出す作り方を研究し、4つの食感が交わったところを探し出したのだと言う。だから、父は納得が行かない羊羹ができた時は、これはだめだと言って全部捨ていたこともあったという。それは「客の信頼を勝ち取り、小ざさの伝統を作っていくために最も大切なことだ」という父の信念からだった。

共存共栄

小ざさの工場
小ざさの工場

小豆の問屋に対する考え方も徹底していて、問屋との信頼関係を非常に大切にしていた。それは「問屋と真剣に向き合う姿勢」だった。問屋には真剣にいい小豆を探してもらい、求める品質のためにしっかり要望を出すが、支払いはすぐにし問屋に迷惑をかけないようにしている。そこから信頼関係が築かれる。

また、最中に関するこんな逸話もある。最中は日本で有名な和菓子の一種で、餡を包んでいる皮はもち米をついて薄く焼いたものだ。最高の最中を作ろうと、最高の皮を求めていろいろ食べ歩いてようやくいい皮を作る職人に出会え、取引をする時の父の言葉がある。「うちに皮を卸すと思わないで下さい。いっしょに吉祥寺の店で皮を売っていると思って下さい」。その真意は、あなたは皮、わたしは餡を販売している運命共同体だと言うである。皮がなくては最中にはならない、餡がなくても最中にはならない。皮と餡が合体して最中という商品となり販売できるからだ。

視点は広く大きく

篤子の父はユニークで物事を積極的に広い視点で捉えるところがあったようだ。こんなエピソードがある。ある暑い夏の日、「バケツは水を汲んで運ぶだけの道具だと思ってはいけない。洗い桶にもなるし、植木鉢にもなる。バケツの底に小さな穴をいっぱい開け高いところにつるせばシャワーにもなる」と言った。篤子はさっそく自家製シャワーを作り暑さをしのいだ。これは一例にすぎないが、父はことあるごとに「そのものを、そのものと見るな」と教えてくれたという。つまり、物事を見えたままで捉えてはならない。見方を変えればいろいろなものが見えてくるということを教えてくれたのだと。

また、父の柔軟なものの考え方を語るこんな発言もあった。「事業を始めるにあたり、大方の人は資金や施設がないからできないという。潤沢に揃えてからする事業なら誰でもできる。なければ頭を使えばいい」と。

客には真心を込めて感謝

父は客が品物を買うと、「ありがとうございました」と深々と頭を下げて丁寧にお辞儀をした。それは篤子には自分の娘を嫁にやるように見えたという。「“ありがとうございます”も“いらっしゃいませ”も心を込めないといけない」と小さい頃から言われていたという。真心がこもっているかどうかは、自然と態度に出るからだという。また、客が寄り付きにくい店の雰囲気を出さないために、「客がいなくても、ただ突っ立っていたら店の空気が澱むから、掃除をしたり品物の位置をちょっと変えてみたりして動きを生み出せ」という。目には見えないが空気が澱んでいるところにはお客が入りにくいものだという。

人づくり

小ざさの店先
小ざさの店先

父は後継者となった自分の娘、篤子に非常に厳しかった。父は「一家を背負え。背負えば背負うほど力がでる」と言った。

今、小ざさは篤子の後継者を育てる時期に来ているが、「自分の子供であれば檄を飛ばして教えるが、今の時代はそうはいかない。正直、どうやって小ざさの味を伝えていくか、教えていくか、ちょっと迷う」という。

篤子は父の仕事のやり方を「見て、覚えて、自分なりに考えながら」やってきた。だから、篤子にしてみれば、「わたしのやっていることをよく見ていればわかるはずだ」と思うこともあるが、時代も変わり、そういっても伝わらない。マニュアルもない。社員に「このようにやってくれ」と言っても、「その通りにちゃんとやっている」という。でも篤子にしてみれば、その通りになっていない。それをどうやって伝えるかが難しいのだという。

そこで、逆転の発想のごとく、社員が作業をしていて、自分でこれが一番いい状態だと思った時に時計を見て、時間を記録しておくようにと篤子は言う。マニュアルを作るためではなく、一番いい状態で作業が終えた時に、その時間を記録しておけば、後からどんな時に、どんな作り方をしていたか、その結果、どんなものができたかが分かる。つまり、データ管理だ。

篤子は、1992年に父をなくし、今後小ざさをどうすべきかをよく考えた結果、いいものは伝統として残し、時代の変化をよく見てそれに合うようにやることにした。父が築いた小ざさ、羊羹と最中、箱の意匠や包み紙は残す。言うまでもなく、羊羹や最中の作り方もだ。

実は、2012年末から篤子はちょっと体調を崩し、少しだが工場を留守にした。しかしそのしばらくの間だったが、ほとんど気づかないような細かい違いかもしれないが、味見をした羊羹の味が篤子がこれまで求めてきた本物の羊羹の味ではなくなっていたという。「後継者に自分はこれまで何を教えていたのか」と反省した。そして、「もう一度最初から気を引き締めてやり直す。しっかり後継者にこの味、羊羹の作り方を改めて教える。待っててください。もっと美味しい羊羹を作るから。今でも100%満足する羊羹はできない。だから125歳まで現役で頑張る」と話す。 最後に、好きな言葉はという問いに、「着々と一歩づつ」だった。歩み続けた一歩一歩が今の小ざさを作り、この味を求めて贔屓の客ができ、歴史ができ、信用が生まれたと言える味わいのある言葉である。

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