⑧タイで最も有名な日本人は?

アユタヤ観光のツアーではほとんどが「日本人町跡」に立ち寄ります。アユタヤ王朝が全盛期の時代、ここに多くの日本人が住んでいました。アユタヤは16世紀から18世紀には 世界でも屈指の大都市として興隆し、島のように取り囲まれた城壁内には約20万人の人々が暮らしていました。中国などの近隣アジア諸国のみならず、オランダ、フランスなどの西洋諸国とも交流が盛んで、その島の周りには日本人町、ポルトガル人町などの、外国人居留地もたくさん造られました。

アユタヤでは外国人は貿易商人であると同時に、王朝の傭兵として国内外の戦いに駆り出されていました。なかでも戦国時代の経験をもち、戦術に長けた日本人は特に重用されていました。その中で頭角を現したのが、山田長政です。

長政は駿河の沼津出身で、駿府から朱印船でタイ(当時はシャム) にわたりました。1600年から鎖国令が出されるまでの約35年間、徳川家康が駿府城に隠居し、海外貿易を積極的に行っていました。 駿府は東南アジア貿易の拠点として、数十万の日本人が駿府から海外に渡ったと言われています。長政もそのなかの一人でした。

シャムにわたった長政は、そこで日本人傭兵隊に加わり、目を見張るような出世をしていきます。 30歳過ぎにはアユタヤの日本人町の頭領になり、同時に日本人の傭兵隊を率いてアユタヤ国王の親衛隊長に抜擢されます。ソンタム王の信頼を受けた長政は王朝内でも位の高い官位を与えられ、第3位の地位である「オークヤー」という地位を与えられました。当時の外国人としては異例の出世だったようです。

しかし、ソンタム王の死後、王位を巡る争いに巻き込まれます。跡継ぎ問題で長政は宮廷内で反感を買い、反乱の多いリゴール(現在のナコンシータマラート)の防衛を理由に左遷されてしまいました。1630年、隣国パッタニーとの戦闘で右足を負傷し、傷口の手当てを部下に任せたところ、毒薬を塗られ不慮の死を遂げるのです。

その後、王位に就いたプラサートトーン王は「日本人は反乱の可能性がある」として、日本人町を焼き討ちにし、日本人町は衰退の運命をたどったのでした。現在では、建物など何もない跡地が残るのみで、「日本人町跡」の碑が建てられています。

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