⑧フィリピンの英雄と日本との関係

フィリピンの正式な独立は1946年、スペインの植民地支配からアメリカ植民地、日本軍占領といった、さまざまな歴史的重圧を経ての独立でした。しかし、スペイン支配の時代からスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されていて、独立への動きは常にありました。

独立運動が本格化したのが19世紀末、それはフィリピンで英雄とたたえられているホセ・リサールの活躍によるところが大きなものでした。

日比谷公園のホセ・リサール像(1888年に2か月ほど都内などに滞在しておりこれを記念したもの)
日比谷公園のホセ・リサール像(1888年に2か月ほど都内などに滞在しておりこれを記念したもの)

リサールは1861年にラグナ州のカラバンという町に生まれました。 彼は中国とフィリピンの混血であるメスティーソでした。 初等教育を終えると測量の技術、哲学、医学などを身につけ、スペインやドイツ、フランスなどに留学し、様々な学問を身につけていきました。 彼には多彩な才能があったようで、特に語学には秀でており、タガログ語などのフィリピン諸言語を始め、スペイン語、英語など10以上の言語を自由に操り、日本語、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語、サンスクリット語を理解したと言われています。

リサールは当初は革命志向家ではなく、 フィリピン人の生活改善を願っていたといわれます。著書に『ノリ・メ・タンヘレ(我 に触れるな)」という、 スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの 現状を克明に描き出したスペイン語の小説がありますが、 この小説がフィリピン人の間に独立への機運を高めま した。

バルセロナでスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織してプロパガンダ運動を始め、フィリピン人とスペイン人の法的平等、言論の自由、フィリピン人聖職者の養成などを訴えました。しかし、これらの考えはスペイン人統治者には植民地支配を脅かすものとして危険視されました。1892年にリサールはマニラにもどりますが、 リサールはマニラを追放され、世界各地を転々としました。しかし、1896年に捕らえられ、裁判で銃殺刑が宣告され、 12月30日にマニラで銃殺されました。それを機に、フィリピンの民衆による反政府運動が拡大し、フィリピン全土に広がりました。 リサールが銃殺されたあたりは、現在リサール公園として整備されており、衛兵に24時間守られた記念碑があります。

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