日本とカンボジアの大きな共通点

20年におよぶ内戦の末、1992年4月に国民議会総選挙が行われ、立憲君主制の国家として再出発したカンボジア。もともとフランスの保護国時代、 1920年に整備された民法が1975年まで使われていましたが、長年混乱の続いたこの新国家の船出に際して、日本の全面協力によってカンボジアの民法は新たに整備されました。民法の整備をするにあたり、まず1998年に日本から予備調査のための事前調査団が送られました。そして、2003年にできあがった民法の草案をカンボジア政府に引渡したことをもって、一通りの作業が終わったといえます。その後もカンボジアにおける法案の成立や司法官、弁護士の養成に関しても、日本は引き続き協力をしました。その結果、カンボジアの民法と民事訴訟法は日本のそれと非常によく似ています。

ただし法律を新たに作っていく場合、母国語にない法律用語をどのゆおに置き換えていくかが重要な問題となります。カンボジアにおける民法作成に関しても同じことがいえ、もともとフランス保護国時代の旧民法があったとしても、時代が経つとともに法律上の新しい概念が現れ、カンボジアの言語であるクメール語の中では見当たらないこともありました。クメール語には、歴史的にその起源となっているパーリ語やサンスクリット語などを使いその不足を補ってきたいきさつがあり、カンボジアの新民法の作成に関しても同じような手法がとられました。

一方で民法の作成だけに限らず、日本はカンボジアの復興にさまざまな援助をおこなっています。道路や橋などの生活に関わるインフラの整備や教育・医療分野への援助、また内戦によって、いまだにカンボジア国内いたるところに埋められている地雷去の問題へもODA(政府開発援助) によって協力がなされています。また、観光地として有名なアンコール・ワットの遺跡修復にも日本からの援助が行われており、上智大学をはじめ民間からの協力もみられます。

なお、カンボジアと日本をつなぐものとしてはこの他にもいろいろあり、カンボジア内戦終結のきっかけになった相互直接対話に向けた会議が1990年に東京で開かれましたし、1991年のカンボジア和平パリ協定後、1992年から平和維持活動を始めた国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)の事務総長には日本人の明石康さんが就きました。

このようにカンボジア人にとっては日本は大きな援助国であるとの認識が強くあります。同時に、日本人はお金持ちである、援助してくれるのが当たり前という考えも強く残っていると思います。2000年の初め頃訪問したときに、現地の友人から結婚相手を紹介すると強く言われました。なんとまだ十代の高校生で、もちろんお断りしましたが、現地ではいまだに日本人と結婚したら幸せな生活が待っていると思っている女性がたくさんいます。

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