カンボジア建国の父、シアヌーク国王の取った奇策

先日、2023年7月23日に投開票されたカンボジア総選挙では、カンボジア人民党が圧勝しました。ただ、民主的な選挙とはいいがたく、海外からの批判をさけるためか、王党派のフンシンペック党が5議席程度獲得した模様です。その党首はシアヌーク前国王の孫です。

前国王はその人の立場によって様々に評価されています。「日和見主義」「機会便乗主義」といった政治姿勢に対する批判や、ベトナムの支援をうけたへンサムリン政府と闘うためにボルポト派と手を組んだことに対する批判は強くありますが、武力を使わずにカンボジアを独立に導いた点や激動する東南アジア情勢の中で、わずか19歳の時に国王に即位し、その後60年以上にも渡ってカンボジア政治の中心であり続けた功績は、国際社会から一定の評価を受けています。

首都プノンペンにある王宮

シアヌークの独立闘争がずば抜けて優れていた点は武力を使わず、国際世論に植民地支配の不当性を訴えたり、隣国ベトナムの共産化なども利用したりしながら巧みにフランスが独立を認めざるを得ない状況をつくっていく方法にありました。

まずシアヌークは1946年1月にフランスとの暫定統治協定に署名し、翌年にはフランス連合内での独立を見越してカンボジア王国憲法を公布します。1949年11月にはフランス連合内で独立を承認する協定にしましたが、 この協定はカンボジアがフランス領であり続けることを認めたため、共産主義者や反王政主義者らが一斉に国王を非難し窮地に追い込まれます。

この危機を脱するために、国王は1952年6月に国会を解散して全権を掌握し、3年以内完全独立を勝ち取ることを国民に宣言します。その後、30代の若さと英語、フランス語を操る語学力を生かし、世界各地を飛び回りカンボジア完全独立の必要性を国際社会に訴えていきます。こうして国際世論を味方につけた国王はフランスから譲歩を引き出します。

1953年 9月にフランスがカンボジアに提示した新しい協定の中身は一定の譲歩はあるもののカンボジアの完全独立を認めていなかったため、国王は「完全独立を達成するまでは首都に帰らない」と宣言し、西部のシェムリアップやバッタンバンで暮らし始めました。

当時のカンボジアは独立戦争を続けているベトナム民族主義者の影響もあったため、全権を掌握している国王が首都にいない状況の中では、カンボジア国民もフランスに対して独立戦争を仕掛ける気配が強くありました。ベトナムとの戦争に手を焼いていたフランスはカンボジアとの戦争は何としても避けたかったため、 シアヌークに対して更に譲歩し、司法権、警察権、軍事権を委譲し、1953年10月17日についに完全独立を成し遂げました。 この国王の闘争は実に99.8%のカンボジア人が「国王は約束を守った」と答えたほど完璧な独立運動でした。

こうした日和見主義の立ち回りのうまさが今回の選挙の結果となって表れたのかも知れません。人民党を表立って批判していなかったからです。

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